体験者の手記から
2008年3月29日《衝撃の手記》出版
「収容所に生まれた僕は愛を知らない」
(翻訳:李洋秀 出版社:KKベストセラーズ)
収容所で生まれ、23歳で脱出した申東嚇(シンドンヒョック)氏の衝撃の手記(日本語版)
「管理所(注:強制収容所のこと)では、初めて字を学び始める頃から各種の作業現場に動員され、いくら年老いても死ぬ間際まで働かせられる。
今、この瞬間にも管理所の中で労働に苦しみ、くたびれて倒れ、鞭で打たれて、血を吐く人たちがいる。彼らも同じ人間として、人間らしく暮らす権利を持たねばならない。子どもは子どもらしく面倒を見てもらい、大人は大人の待遇を受けるべきだ。しかし管理所では、健康であろうとなかろうと、子どもであろうとお年寄りであろうと、仕事の程度に差はない。彼らは与えられた課題ができないからと鞭を打たれる。お年寄りたちは仕事ができないからと鞭打たれ、幼い子どもたちは仕事をきちんと覚えろと鞭打たれるのが、管理所の一般化した現象だ。…………
私の体は管理所を脱出したが、心は管理所の囚人らとともにある。今後とも永遠に彼らとともにいるだろう。彼らが人間らしい扱いを受け、人間らしい暮らしができるときまで。」
この手記が書かれたとき、彼は24歳であった。今、25歳である。
以下、抜粋
収容所内の学校生活
完全統制区域収容所にも学校はある。14号管理所には人民学校が一つ、高等中学校が一つあった。人民学校の場合、一クラスは30~40人、一学年に3~4クラスあった。一年生から五年生まで全学年を合わせると500~600人になった。・・・
人民学校と高等中学校を合わせると、1000人以上の生徒が管理所内にいる。管理所の生徒数から管理所に収容された人の数を、最大で10万人と推定する人もいるが、私は収容者数は5万人程度だろうと思っている。・・・
〈収容所学校の教師〉
人民学校にはクラスごとに担任の教師が一人ずつ配置されているが、高等中学校に上ると一学年に担任の先生が一人だけ配置される。したがって、高等中学校では担任の先生が、全学年合わせても六人だけである。
高等中学校では、生徒たちは授業を受けるのではなく働きに出るので、先生をたくさん置く必要がなく、一学年に一人担任がいれば十分なのだ。中学校の先生の役割は授業ではなく、作業への出入りの引率と、その管理である。
学校には担任の先生の他に校長先生が一人いて、学校の管理を行う。その他の学校関係者はいない。
校長先生はたまに、生徒たちを集めてから訓示をする。
「おい!お前たち、仕事を一生懸命しないといけないぞ。お前たちの父母が犯した罪を、お前たちが償わなければならないのだ。だから仕事を一生懸命するように!」
担任の先生は保衛員なので、他の保衛員たちとまったく同じく、拳銃を下げたまま制服を着て授業する。担任の先生たちは保衛員服を着ていたが、全員男の先生だった。先生は自分の名前は生徒に教えてくれない。
私たちは冬に保衛員の村に行き、野外トイレの掃除をさせられた。私が学校生活をしていた間、毎年動員された。あるときは全校生徒が動員され、保衛員の村のトイレ掃除をすることもあった。
各家のトイレを回って、人糞を背負い農場の畑に運ぶのだ。私たちは凍った人糞をツルハシやシャベルで砕き、それを素手で移して天秤棒で運んだ。そのとき凍った人糞が溶けて、服にじゅるじゅると流れ落ちたりした。・・・
授業時間中に、生徒が先生に質問することはできない。
〈人民学校で教える科目と宿題〉
収容所の学校の授業時間は一般の人民学校より長いのに、金日成に関連することや党の革命史、北朝鮮の地理や科学、音楽、美術に関してはまったく教えてくれない。・・・
教科書は先生だけが持っていて、生徒には教科書もなく、ノートと鉛筆だけを持って学校に通う。・・・管理所には読める本が一冊もない。
算数の時間には足し算と引き算を学んだだけで、掛け算と割り算は教えられなかった。それで今も、九九を覚えたことがないので、掛け算が必要な場合は足し算をその数だけ繰り返して答えを出している。
体育の時間に球技などはなく、駆けっこや鉄棒にぶら下がることだけをする。・・・
このように、収容所の学校で学ぶ科目は、国語と算数、体育だけだ。・・・
外国のことは何も学ばないので、管理所の中で中国やアメリカについて耳にしたことはない。(以上、申東赫著、李洋秀訳『収容所で生まれた僕は愛を知らない』84-98頁)
過酷な強制労働と犠牲者たち
〈炭鉱支援〉
中学校一年生のときだった。1993年6月の中旬、私たちのクラスは炭鉱支援に出かけた。私たちが10~11歳のときだ。
私たちは炭鉱に直接入らなければならなかった。斜坑(傾いた坑道)に沿って降りていき、5片道まで降りた。2500メートルの深さだ。
片道とは、斜坑の500メートルおきに一つずつある水平の坑道で、そこで石炭を掘る。上から順番に1片道、2片道、3片道、4片道、5片道となっている。
私たちは水平坑道に沿って、終点(5片道の最後の端)まで入って行かなければならなかった。終点の深さは約八キロだが、入って行くだけでも胸やけがして、息が上がり始めた。持って行ったカンテラの火は、空気不足で何度も消えた。終点に到着するとまともに呼吸ができなかった。
私たちの仕事は大人が掘り出した石炭をトロッコ(石炭を積んで運ぶ二トン車)に積んで5片道の停車場、石炭を積んで出たトロッコを外に引き上げるために集めておく場所まで押していくことだった。
6人でトロッコを一台ずつ押すが、私の組は女三人と男三人で構成されていた。石炭がトロッコにいっぱいになると、押して運んでいく。大人でも辛くて危ない仕事を、幼い私たちがしなければならなかった。
6人いてもトロッコを押すのは大変で、もし脱線でもしたら大事だった。それでも私たちは力のかぎりトロッコを押した。私たちの組が終点からおよそ4キロほど進んだころ、後に続いていた組に問題が起きた。トロッコが脱線したのだ。
トロッコの重さは約2トン。私たちがどれほどがっかりしたか、そのときの心情を言葉では表せない。私たちは皆で集まって、どうしたら脱線したトロッコを復旧することができるか話し合ったが、終点で働く大人の力を借りるしかないということで、私が再度終点に戻っていった。
「あそこです、トロッコが脱線したのですが……少し助けてください」
終点に到着して現場責任者であるおじさんに事実を言うと、
「おい、このガキども、お前たちどうするつもりだ。お前ら仕事する気あるのか、ないのか?」
とおじさんの口から罵声が浴びせられ、私は頭を殴られた。
私は自分の組のトロッコではないと言ったが、おじさんの口から出る罵声は止まらなかった。
トロッコの車輪が二つ脱線していたが、班長のおじさんは私たちに、「脱線していないほうに行ってぶら下がれ」と言った。おじさんの言うとおりに私たちは、トロッコにぶら下がった。
するとおじさんたちはテコを二個持ってきて、脱線したほうに挟むと、思いっきり持ち上げた。そして、脱線した車輪をレールの上に乗せた。
私たちは、歓声の声を上げた。
子どもたちの力では不可能だったことを、大人の力を借りて復旧できたので幸いだった。もし復旧できなかったら、先生の体罰を免れることはできなかったはずだ。
トロッコを復旧するのに、ほとんど二時間かかってしまった。私たちは気をつけながら再びトロッコを押して、停車場に出た。そのとき電気の明かりに照らされ、どれほどほっとしたことか。
10歳の幼子たちは、大人用の炭鉱の帽子を被り、片手にカンテラの灯を掲げ、顔は石炭の粉で覆われて、眼球の白い部分と歯だけが白く、全身真っ黒だった。
仕事は、一組でトロッコを四回押さないと終わらない。しかし、子どもたちだけでも八キロの距離を、一日に四回もトロッコを押して往復できるだろうか。
私たちは課題を達成できないと炭鉱から出してもらえなかった。私たちは思い足をひきずって、また終点に向かった。もう一台トロッコを押さないと、お昼を食べられない。
二番目のトロッコは三時間かけてやっと押し出すことができた。(前掲書、128~131頁)






