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強制収容所関連情報

『1939年ナチの残虐さに関する英国政府白書』より

原名“ドイツにおけるドイツ国籍者の取り扱いに関する白書”

以下、強制収容所に関する所を英文の書から翻訳して紹介する。

「以下の翻訳は、日本語の訳本が出版されていないようなので、せひ皆様にもご紹介 したく、当会でその一部を翻訳したものです。正確でない部分がある場合又は、和訳 本があるときは、お知らせいただけると幸いです。」
(出典:『THE MARK OF THE SWASTIKA』(PUBLISHED BY THE AD PRESS,LTD.,NEW YORK)


一、元収容者ユダヤ人の陳述 1938年夏

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 有能な実業家(ビジネマン)のX氏は、ブッへンバルトの強制収容所に6週間いた。合法性の概観を保つために、1人のユダヤ人にとって最も軽い過失、40年の前の取るに足らない違反が、警察記録から探し出され、逮捕の口実にされた。

 X氏は次のように語った。日曜も週日もなく、労働時間は一日16時間であった。どんなに暑い日であっても、労働時間中は水分を取ることが禁止された。食べ物自身は悪くなかったが、極めて不十分であった。明け方の薄いコーヒー、昼間の半リットルのスープ。パンの割当量は一日でたったの250グラム。(いくらか金を持っている者は濃いミルクなどたまに酒保から買うことはできた。)彼がそこにいた間、ユダヤ人の収容者労働はひとの2倍であり、配給はひとの半分であった。仕事は、言うまでもなく、重い石を運ぶことであった。満足に食べている人の力をはるかに超える重い石であることがしばしばであった。ユダヤ人たちは警備員(SS隊員)たちから、お前たちは昔エジプトで祖先たちが受けたと同じ扱いを経験しているのだ、それもファラオ(エジプト王)ははるかに手加減していたのだと嘲って言った。(注 旧約聖書 出エジプト記参照)

 人々は何時間もしまいまで気を付け、をしていなければならなかった。鞭打ちはしょっちゅうだった。労働時間中に水を飲んだというささいな違反に対してまで。通常の罰は二人の警備員が交互に加える25回の鞭打ちであった。これはしばしば人事不省を生み出したが、ユダヤ人たちは(警備員たちから)総統(ヒューラー)がユダヤ人は60回まで叩いてよいと命令を受けていると言われた。

 X氏は朝起きて15分で一つの蛇口で480人が洗面しなければならないグループの中にいた。のちにはこれさえストップされた。X氏は6週間石鹸も歯ブラシもない収容所にいた。彼がいたとき、収容所には8千人がいた。しかしわずかの間に2万人に達したと言う噂であった。1500人のユダヤ人、800人の熱烈聖書研究者(国際聖書学生)がいた。残りは政治家(政治犯)、いわゆる犯罪人、そしてジプシーであった。各人はバッチを着けた。ユダヤ人は黄色のダビデの星、聖書学生は紫色等々。長期囚の共産党員その他は副看守として行動した。ユダヤ人の囚人は月に2回手紙のやり取りが許された。聖書学生は外部世界との接触が一切許されなかった。しかしその反面彼らの配給はカットされなかった。X氏は彼らのことを最高の尊敬を込めて語った。彼らの勇気と信仰心は目を見張るものであった。彼らは神が命じるならばどんなことでも耐え抜く用意があると告白した。

 収容所では死は日常茶飯であった。(親族は、灰は3マルクで持ち帰ることができるという役人からの連絡で始めて知らされることがしばしばだ。)60代のX氏は釈放のあと完全にからだが駄目になった。3週間もベッドにいた。別な人物はシティー病院に高熱のために運ばれた。しかし助かるとは思われなかった。もう一人は、同じ時に釈放されたが、道路を横切ることができないような神経過敏状態であった。

 X氏は次のことを陳述した。その内容はよく調査され、確かなものであった。ユダヤ人収容者はドイツを立ち去ることを証明できるものがない限り、永久に釈放されないことを。死以外にはこの故意の精神と肉体に対するシステマティックな拷問から逃れる道はないかに見える。X氏は嘆願する。彼らの最後の行き先と運命が決まる間、彼らが一括して、ここから別な国の人間的な収容所に移されることを。彼は、この提案が(一国の)個別な亡命者委員会の力の範囲を超えるものであり、国際的な計画を必要とすることをよく理解していた。しかしこの提案が少なくとも他者の身を心配する、同情的な考慮をもって受け止められることを、切に乞うた。


二、ユダヤ人キリスト者の証言

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 Z氏はドイツで従業員3人の小さな商売をしていた。1938年6月、何の理由も前ぶれもなくベルリンの街頭で検挙された。逮捕の命令もなく(そして後で何の令状もなく)。アレクサンダー・プレイス刑務所につれていかれ、すでに32人も入っていた一室にいれられた。座る所もない程狭かった。夜には交代で座った。トイレ用に一つのバケツ(恐ろしい悪臭)。そこに二日滞在。はじめ警察署で誰もが履歴をきかれ、拘禁への同意の署名を強要される。すべて所持していたものははぎとられる。15の警察署から約3千人の囚人が集められた。駅まで貨車で運ばれ、目的地も知らされずに特別車に入れられる。会話禁止。ワイマールに朝6時半に到着。侮辱と殴打でSS隊員に迎えられる。ユダヤ人の犬め、ごろつき!お前たちを到頭つかまえたぞetc。

 3~4%がアーリア人とわずかなジプシー。収容所指揮官シュナイダーの下で貨車に分けられる。一時間半でブッヘンバルトへ。恐ろしい条件の収容所。跪くと、到るところ汚物と泥。多くの樹木が切られている。しかし切り株はそのまま。ほとんど歩くのが不可能。歩くことのできない心臓病の男は他の収容者たちの足にくくられてひきずられていった(SS隊員はユダヤ人に触れない)。肉が彼の顔から裂けた。彼は見分けがつかない程変形した。(他の例もこれと似たりよったり。)350人の新参者は兵営の地下室に閉じこめられた。(収容所全体で約1千人がいた。100のわら袋だけで何の家具もない。)4列で、一つのわら袋に3人ずつ。お互いの横に寝るように強いられる。空間ができるように袋の上に交叉して、まるでいわしのかん詰のように。背中合せに寝ることは禁じられるか、棍棒のひと振りを受ける。直接監督の地位に立つのは古い収容者である。“不正な上官たち”彼ら自身“プロの犯罪者たち”が我々と一緒に寝る。彼らの言葉は絶対的な法律なのである。

 我々が到着して指揮官の演説つきの点呼が何時間も続く。指揮官は我々の収容に関してすべての命令を与える。

《収容所の秩序》 ここは矯正のための刑務所または場所ではない。ここには別な方法がある。いかなる逃亡の試みまたは攻撃は(たんなる話や身振りも同様に受けとられる)1千ボルトの充電鉄線によって阻止される。あらゆる歩哨はもし誰かが彼のラインから動いたら、警告なしにライフルを使うようになっていた。個々の弾丸の値段は12ペニッヒであった。そしてそれが多くも少なくもなく一人のユダヤ人の価値であった。これらすべてはののしりの言葉―「ユダヤの豚」、「選民」、「神の人々」、「ユダヤ人の下司」、「汚い豚」etcを伴った。(しかし、何日かたつと人はそれに慣れた)。指揮官の代表たちは点呼をし、役人を指名した。最初の日は点呼と服の供給(軍靴、ずぼんと上衣、しかし下着はなかった)。ものははだかの身に着衣された。人々は寒さにふるえた。ブッヘンバルトはすこし高地にあった。10日後に下着が支給された。

《時間表》 3時半起床(就寝は夜10時)。非常に悪い空気。悪臭。小さな独房の窓から水がしたたり落ちる。4時半に整列。4時45分にコーヒーの供給。それも絞首台が立ち、(鞭打ち用の)首切り台のある広場で。この報告以前には一人のSS隊員を殺害した者が吊されていた。吊されていた者は、古株となっていたプロの犯罪者であった。ドイツでのふつうの挨拶は収容所では厳しく禁じられていた。許された挨拶は命令がくり返される間、帽子をとって気をつけをして立つことであった。5時30分、点呼の終り。それまでは気をつけの姿勢で固苦しく立つ。病気と報告された者たちは前に引き出され、間隔をとって立たされて、指揮官の点検を受ける。彼はすぐにみんなの面前で乗馬用の鞭で病人の顔を打ち、「発作(気絶)」の手当てをした。「ユダヤ人は病気にはならない」と。指揮官は医者用の患者を外見できめた。(病気と名乗り出たうちの)6~7%だった。他の者は労働隊に戻らねばならなかった。労働隊の中では病人の区別はない。病人たちは足蹴りと乗馬用鞭でせきたてられた。

 医者は病人を「病気」か「発作」と宣言した。後者は夜「嘘をついた」として罰せられた。結果ユダヤ人の病気は認められなかった。「健康でなければ死」しかなかった。点呼では多くの人が立ち続けることができなかった。彼らは災難の中にいる彼らの仲間たちによって強く支えられねばならなかった。たとえ完全に衰弱していても正面から、隊列は完全であるように見えねばならなかったから。仕事は建設さるべき道路から離れたところで15分間、石を砕く作業であった。それは収容所の外側であったが、充電された鉄線の内側であった。逃亡の試みは起きた。しかしすべては射たれて終わった。多くは射殺されたいがための、逃亡のふりをすることによって自分たちの災難を終らせるものであった。到るところに歩哨が配置された。不具者の集団、すなわち松葉杖の者や脱腸の者たち(ときどきベルトがないと脱腸状態になる)は警備兵の意思で沢山の石を運ばねばならなかった。そのような仕事に全く適していない70歳以上の老人たちが含まれていた。あるとき警備兵は病気で衰弱していく男を統剣で突き刺した。これが繰りかえされたので、その男は死のうと思って鉄線めがけて走った。そして射殺された。

 道路作りの15分の石割り作業は、仕事の出来る者たちは午前中12回から15回、午後は8回行われた。不具者はその半分であった。健常者は4人毎で沢山の丸石を積んだ手押し車を引かなければならなかった。それもしばしば走ってせねばならなかった。躓いた者は哀れであった。へまをした者は監督者に棍棒でなぐられた。警備兵のライフル銃の台床がそのあとを追った。すべての労働隊が自分たちの監督者たちからの処罰の恐怖の中にあった。水を飲むことは特に禁ぜられた。病気になったというにせの報告、嘘をつくこと、または仕事のサボタージュの罰は鞭であった。11時30分に昼の休憩があった(ときどき昼食抜きで夜7時まで働かされることはあったが)。12時30分、仕事はまた3時半まで再開。午後4時、点呼。これは通常5時半まで続く。ユダヤ人の多くは10時まで労働。どのようにして非アリアン人がユダヤ人から区別されたかははっきりしない。アリアン人からまちがって選ばれた非アリアン人は哀れであった。

 ユダヤ人は「ダビデの十字」のしるしの入ったものを身につけねばならなかった。赤はプロの犯罪人。黒は「失業者」。紫は「聖書気違い」。人々はプロの犯罪人のサインを強要され、カード目録に入れられる(カードの裏側には本人の実の職業が記される)。陳述書への署名を拒否した者は悲惨である。黄色はユダヤ人の印であった。それは他のものに追加された。

 鞭打ちは午後の点呼の時に行われた。該当者は前に出された。罰は読みあげられる(前もって決められている)。通常の罰はでん部に25回の鞭打ちである。左右から鞭を持った二人の警備兵が行う。収容者は板にくくりつけられる。もし悲鳴をあげると鞭打ちは35回に増やされる。警備員は全力を使う。ときには空中に飛び上がって腕に勢いを加える。鞭打ちのない日が数日続く、そして数は2回から10回である。鞭打ちのあと点呼が終るまで壁に向って気をつけの姿勢で立っていなければならない。それから衛生官が来て、軟膏を傷口につける。

 別の処罰は腕をうしろに曲げさせて、腕を引っぱり上げて地上から3メートル(10フィート)吊すものである。これは指揮官がマイクロフォンを使って行う特別の命令でなされる。これらの罰を行うために特別な人間が雇われる。彼らはほかに何もしない。吊しは10時間から12時間続けられる。それも公衆の前で。吊しの他の形態は、足を地から離して手錠をかけられたまま木の幹を抱かされるもので、足は地から離されるが、よりマイルドな処罰とみなされている。SS隊員はいつでもそれを行使することができる。

 夕方には自由時間はない。しかしやることは昼間よりやさしい。国家警察による試験もあるが、手荒なことはない。もし禁止されなければ、2週間に1回家に手紙を書く。勿論状況をリアルに書くことはできない。家族は真相を何も知らない。

 Z氏は収容所で14日だけいた唯一人の者である。しかし短い間に起きた次のような個別の出来事を伝えてくれた。壁に向って3時間立っているように命じられた男が、3時間の終り頃、不可避的に、みられていないと考えて少しばかりからだを曲げ始めた。しかし決められた位置は終始守らねばならない。一人の警備兵が、収容者が正しく立っていないことを見つけた。彼は収容者をつかみ、彼の頭をくり返し、石の壁に打ちつけた(石は鋭い角を持つ荒いものだった)。血が噴き出し、壁の上をつたわって流れた。そのとき新たな怒りが警備兵をとらえた。「お前、豚め、壁を汚しやがったな!」彼はその男を地面に放り投げ、容赦なく彼をなぐった。Z氏はその男が確実に死ぬだろうと思った。しかし彼は生き返った。

 より悪いケースであるが、妻から愛情にみちた手紙をもらったある中年のケースである。彼は教養のある感じやすいタイプの人間であった。自己抑制の限度を維持することができず、要求された厳しさをいつも外に出した。彼は負けてうめき声をあげた。そのため彼は木にしばりつけられ、14時間も放っておかれた。彼は意識がなくなった。二人の警備兵が通りかかった。「ああ、彼はすでに死んでいる。」彼らは彼をほどき、地面の上に投げ出した。それから彼らは彼のからだの上に飛び乗り、彼らの重い靴で踏みつけた。彼はかすかに動いた。「ああ、彼は死んでいない!」Z氏はそこを通りかかった。しかし次の瞬間彼はその男を見た。男の胸と顔は凝固した血のかたまりであった。彼の目ははれ、紫色だった。その上彼は気が狂った。点呼のとき、両脇の者から彼は支えられねばならなかった。しかし彼の頭は前に垂れ、からだはけいれんを起していた。夜彼は突然粗野に叫び出し、かん詰になって横たわって寝ている仲間のからだを踏みつけて逃げようとした。そのとき命令が下った。今後両隣の者は彼が静粛に保つよう責任を持つ。もし彼がまた叫び出したら、二人は25回の鞭打ちを受けると。

 収容所に雇われたSS隊員はそのほとんどがそのために特別な訓練を受けた17歳から20歳までの非常に若い者たちであった。しかし彼らはすでにとても残忍でサディスティックであったので、Z氏には、どうしてそんなことが発揮されるのか(そして彼らの母親はどう思うだろうか)、いつも不思議であった。彼らは拷問を加えることを楽しんでいるように見えた。その一例であるが、収容者の顔をわらでくすぐる。彼が顔をぐいと引いたとき、彼に恐ろしい一撃を加える。警備兵のサディスティックな遊びは弁護士を職業としたある老人の扱いに見ることができる。そのユダヤ人の姿は特に注意を引いたので。彼はへい塀の上に像として(モニュメントとして)6時間から8時間立たされた。すべての通行者がこのジョークに心から笑った。また別のとき、警備兵が彼に熱いかと聞き、弁護士が同意したとき、バケツ10杯分の水が彼の頭にあびせられた。

 Z氏自身は収容所で比較的よく過ごした。彼はそのことを祈りのお蔭とした。その祈りによって恐さを克服できたからである。各自に課せられる法外な要求を活発にやりとげるには、そして重労働と他の身体的苦痛を、よろめいたり、しりごみしたりせずにやり通すには、多くの肉体的な力と度胸の力が求められる。弱さのしるしは明らかに警備兵たちのサディスティックな本能を刺激する。だから、人が彼らの足の高さの所で地面にしゃがんでいると、彼らは習慣的に彼の顔を蹴る。Z氏はいつも神に犠牲者たちが死ぬように祈り、懇願した。なぜなら一つの拷問はたやすく別の拷問を引きおこすからだ。犠牲者たちを射殺する方が、彼らに生を許すより、はるかに簡単で、より慈悲深いであろう。なぜならすべての実際の目的がすでに破壊されていたし、そして生きることは犠牲者の引きのばされた無限の苦悶をもたらすだけだったから。

 収容所には1万人の収容者がいた。その約半分がユダヤ人(といくらかの「聖書探究者」たち)であった。毎日多くの死があった。

 Z氏は収容所で14日間過ごした唯一の人であった。彼は移住の準備が整っているため釈放されたわずかな人数のうちの一人であった。しかしからだに傷跡のある収容者は釈放は不可能であった。

 彼らは厳しくおどされた。彼らが収容所の中で見たり経験したことを一言でもしゃべったら、すぐにつれ戻されると。Z氏は国を離れる前に所持品をすべて売りさばくため数週間の滞在の許可を求めた。しかしながら彼が再び逮捕されることが明白になった。ドイツ人の牧師が港でイギリス領事と共に彼のケースを弁護し、Z氏はその国をすぐに立ち去るためのビザを得た。車を売って南アメリカまでの切符を手に入れた。しかし事業はたたまざるを得ず、1933年以来購入したすべての所有物に課せられた100%の税は、彼の財産(高価な専門的な道具など)のほとんどすべてを持ち去るのを妨げた。彼は結局現金で10マルクしか所持できなかった。

 Z氏は戦争(第一次世界大戦)を闘った経験がある。しかし塹壕の中の生活は、強制収容所の生活と比べると、サナトリウム(保養所)であった。


三、あるドイツ駐在イギリス総領事の報告(その1)(聞き取り調査)

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総領事 Smallbones から Sir G. Ogilvie-Forbes に

フランクフルト・アム・マイン(地名)、1938年12月14日

1.ユダヤ人に対する行為、シナゴーグの火事、店舗や住居の破壊、襲 撃や略奪はフォム・ラート氏の死に怒った民衆の仕業であるという情報を ドイツ政府はそう乗り気でもない様子で流しているが、SS(親衛隊)や正 規の警察が逮捕された者を大規模にまた組織的に取り扱っているやり方に 対する責任を否認することは難しいだろう。それゆえ私は逮捕された者の うち一部の者がどう扱われたかについてあえて報告してみたい。この緊急 の報告を読むのは不愉快なことかも知れない。しかし私はありのままに述 べ伝えることを自分の責務と考える。収容所から釈放された者はそこで起 ったことを明かすとひどい目に遭うぞと脅されている。私がここで報告す る事実はその他多くの人もそれぞれ別個に伝えるところである。彼ら全て が同じ事柄について同じ嘘を同時につくなどということはあり得ない。

2.私はドイツで約八年間勤務している。第一次大戦後屈辱を味わっていた時期のドイツ人もミュンヘン滞在中に知っている。この職務に就いたのは1932年である。ドイツ人の性格を理解していると自負し、力の限り英独の友好のために尽力して来た。最近の出来事によりドイツ人には私には想像もつかない部分があることを知った。その気質には残酷なところなどないように思われていた。動物・子供・老人・病人に対して彼らはいつも優しい。サディスティックな残酷さがこのように現れたことは性的倒錯、特に同性愛がドイツでは大変広く見られることにより説明できよう。集団的性的倒錯以外の理由ではこの突発的事態は説明できないように思われる。ドイツ政府が国民の選挙に基づいているなら、これらの惨事に責任のある者は怒りの嵐により銃殺刑に処せられなくとも権力の場から追われることになるだろうと確信している。

3.以下はあるユダヤ人に起ったことの説明である。彼は戦争中塹壕の中に入って戦い、この地において事業も成功し、教養もある人物である。彼の説明は同じ経験をした他の者たちが我々に話したことと詳しい点でも一致する。彼は先月11日秘密警察から電話をもらい、家に居るよう命じられた。警察は午後三時にやって来た。彼は代えのシーツと暖かい下着を持って行く許可を求めたが拒まれた。現金を少々持って行くことは許された。最寄りの警察署に連れて行かれ、トラックに載せるだけの人数が集まるまでそこに留置された。それから展示ホールという、見本市や政治集会のために使われる大きな建物に連れて行かれた。ホールは優に二万人以上の人を収容できる。建物の外には多くの群衆が集まっており、トラックが着くごとに悪口雑言を浴びせかけた。(Dowden氏はまさにこの日現場を二度通り掛かり、主に若者と女性で群衆が成り立っていることを認めた。女たちがデモにあまり乗り気でなかった。男たちがユダヤ人をなぶり破壊行動をするよう命じられていたのと同様、女たちもそこに来るよう命じられたからそうしたに過ぎないような感じがしたという。)いったんホールに入ると情報提供者はポケットを空にするよう求められた。中身はハンカチも含めて封筒の中に入れられ、釈放時に所有物は返されると聞かされた。それから他の者と一緒に並ばされた。その者たちの中には前日の晩から眠ることなく、また食べ物や水分を取ることなくそこにいたものもいた。

4.それからSSと警察は集められた者をなぶり者にした。ユダヤ人たちは跪いて手を背中の後ろに回し、前屈みになって額を地面に付けるよう強いられた。警備の者が手伝ったが、それはこのような曲芸ができぬ者のうなじを蹴るということだった。建物の中を走り回るよう強いられた者もいた。吐いた者もいた。警備の者は吐いた者の首根っこをつかみ、その顔と髪の毛で吐瀉物を拭い去った。

5.午後五時頃、SSの兵士が乗り組んだトラックが到着した。収容者たちは殴打や蹴りを受けながらそれに乗り込まされた。町の反対側の郊外にある駅に連れて行かれた。降車すると階段を数段下りて薄暗い陸橋の方に行かなければならなかった。その陸橋はプラットフォームに行くためのものだった。警備の者は手足の届く限り誰にでも殴打と蹴りを浴びせ掛けた。陸橋まで来ると停止して壁のほうを向くよう命じられた。銃殺されると思ってヒステリーを起こす者もいた。警備の者は彼らの後ろを行ったり来たりして蹴ったり殴ったりした。平服の者も数人このいじめに加わった。それからワイマールの近くのブーヘンヴァルトまで列車に乗せられて行った。着くまで数時間掛かったが、その間警備の者は行ったり来たりしては囚人を殴って歯を折ったり、頭をへこませたり、目の周りに青あざを作らせたりした。ワイマールで止められ、また殴打と蹴りとを食らいながら既に人で一杯のトラックに乗せられた。トラックでの移動中、頭を膝の間に入れて置くように言われ、その姿勢のまま棒で殴られた。

6.収容所に着くと蹴ったり殴ったりされながら鉄条網で囲まれたところに追いやられた。(鉄条網には電流が通い逃げようとしたものはひどい火傷を負った。これは別の情報源に拠る。)その後収容所の所長が演説し、ユダヤ人についての感想を述べた。それから全員髪の毛を刈られ、髭を切られた。ラビは手ひどくなぶられた。宗教的な教義によって髭にはさみを当てることが禁じられているからである。情報提供者は約五百人のグループの中にいたが、門に最も近い1番宿舎に入れられた。幅200フィート、奥行き80フィートほどしかなく、そこにおよそ二千五百人が詰め込まれていた。その小屋の中には寝床が段になって天井まで届いており、その寝床一つに三人が寝なければならないためにそれだけの人数を詰め込めるのである。(二人の家畜商人と一緒にこのような寝床を十六日間共にしなければならなかった友人を知っている。そこでは横向きになって寝る他なく、体を楽にするために寝返りを打ちたいと思えば全員いっしょにそうする必要があったという。)

7.ブーヘンヴァルトの収容所は当時建設中であったため、苦労が増えた。水道は引かれておらず共同便所もなかった。収容者たちは初日飲み水は与えられなかった。体を洗うための水は最後まで与えられなかった。(前述の友人は十六日間風呂なしで通した。雨水を集めた場合は除く。)到着の翌日情報提供者はコーヒーを思わせる味の付いた湯と少量のパンとをもらった。その時までには収容者たちは飢えと渇きで気も狂わんばかりだった。

8.最初の晩、警備の者が入って来て男たちを適当に選んで外に連れ出し、鞭で打った。地面には二つの踏み板が固定されており、そこに男の足が革ひもで縛り付けられた。それから男は柱の上を越して前屈みになることを強いられた。そして頭は水平の二本の棒の間で固定された。男たちは最高で五十回鞭打たれた。但し遊び半分で気ままに鞭打たれるような場合はそれ以上になった。警備の者一人で鞭打てるのは十回だけと決まっていた。それは彼らが力尽きないようにとの配慮からである。(気をつけの姿勢に素早くならなかったとか命令に従わなかったとかいう些細な罪で鞭打ちが行なわれた。あるラビはユダヤ教の安息日に署名するのを拒んだという理由で鞭打たれた。更に鞭打つぞと脅された。精神的に弱っていたのでラビは結局署名した。)柱と柱の間に体を延ばされたまま死んだ者もいる。生き延びた者は小屋に蹴り戻された。鞭打ちは見せしめのために日中公然と行なわれた。気が狂った者もいる。彼らはその後鎖で繋がれた。その叫び声が聞こえないように頭には袋を被せられ紐で結ばれてしまった。

9.最初の晩は小屋を出て用を足すことも許されなかった。帽子に用を足した。
  [原注・細かい描写が印刷物に適さない性格のものであるために六行削除]

10.情報提供者は入れ歯を使っていて歯槽膿漏である。歯を清潔にし口をゆすぐために一日につき一杯余分に水をもらいたいと申し出た。水不足は深刻で喉も渇き切っていたので、このようにして使った水は飲んでいた。

11.もう一つのケースを述べておく必要がある。以前プロシアの将校だった者は跪き「私は汚いユダヤ人であり、祖国の裏切り者です」と言うよう命令された。彼は拒んだが殴打され言われた通りやらざるを得なかった。

12.収容者の中には有名な外科医や医者がおり、その高いプロ意識と技術とにより奇跡的なことをやり遂げた。緊急の場合は手術さえ行った。ラビも聖職者としてのその名に恥じない働きをした。あるラビは釈放を持ちかけられたが信徒が一人残らず収容所から出るまで釈放されたくないと言った。警備の者がキリスト教的な慈悲心や普通見られる人間性を示したという例を私は全く聞かなかった。

13.収容者たちが釈放された時はまず収容所の医者によって検査され、傷が外から見て分るものは一人として出て行くことを許されなかった。それ以外の者は頭を剃られたあと政治将校のところに出頭した。政治将校は収容所で見たことを漏らせば危険な目に遭うぞと警告した。ドイツを出、世界中どこに逃げようと党は探し出して殺す、と付け加えた。それから持ち物の残りを渡された。しかし金目のもののほとんどはなくなっており、持っていた現金も額がひどく減っていた。文句をつけることはSSが盗んだと言うのと同じであり、そんな言いがかりをつける者は鞭打ちで罰すると言われた。とどめとして、党の「冬季助け合い募金」に金を出さなければならなかった。釈放された者のほとんど全員が定められた期間内(通常四~六週間以内)にドイツを出るという誓約書にサインさせられた。誓約に背いた場合はまた収容所送りとなる。ほとんどの場合履行が不可能な誓約であった。

14.今回のことが始まったとき収容所に入るとどうなるか分っている者はほとんどいなかった。しかし自殺した者も少なくなかった。森に隠れた者もいる。同情的な医者のところに行き、入院するために開腹してもらった者もいる。私の知るシュトゥットガルトの男性は運良く逃れることができたと考えている。運命の日の朝四時半に起こされた。玄関に出た妻はSSの警備兵を見てヒステリーを起こした。彼が助けに行ったところ、殴り倒され口を蹴られた。およそ十本歯が抜けた。また顎の骨も折れた。彼は勇敢にも逮捕令状を見せるよう求めた。警備兵たちがそれを取りに行っている間に彼は顎の骨が折れたままある病院に入院することができた。

15.ユダヤ人に対する襲撃が一月にまたありそうだと多くの方面から聞いた。一月十六日がその新しい行動が始まる日だとされた。その時はユダヤ人女性も強制収容所に入れられると予想されている。ユダヤ人は内部情報を掴んでいると主張する友人たちからその日より前にドイツを出ていくよう警告されている。ダルムシュタット県ディーブルク近くのオーベンローデで「勤労奉仕」により強制収容所が建設されていると聞いている。次回の襲撃の犠牲者の一部を収容するためである。

16.ドイツ在住のユダヤ人の苦境を救うことが出来る限りあえて言うが、現在の政策から判断すると、女子供が先に標的になるのではなく、男がまず狙われている。彼らが強制収容所に入れられ、死の危険にさらされている。しかし家計を支えるのは男だろう。彼らが死ねばその家族をどうするかという問題はいっそう解決が困難になる。

17.クェーカー教徒の中にはドイツに組織を作り非アーリア人に食事と衣服を与えたいと思っている者がおり、数年間にわたって徐々に避難させることを考えていると聞く。ドイツ政府がこのような計画に同意しなければ、意に背いてドイツに残らされているこうした人々のうち何割が生き残れるか、見積もることは難しい。フォレスター卿はクェーカー教徒のためもあってドイツに来ているのだが、ドイツ国外に収容所を作ることを考えているようだ。その収容所で出国予定の者が訓練を受けてから新しい故郷に移っていくことになる。このようにすれば無駄に失われる命の数を恐らく減らせるだろう。

18.残念ながらこの緊急報告の情報は機密事項として扱うよう申し出なければならない。以上の事実がもしまだ知られていなかったとして、今噂が広まれば、世界の世論は更に激しい怒りを示すことだろう。しかしドイツの支配者は今のところ世界の世論を軽蔑しているように見える。唯一考えられる反応は、情報提供者を探し出しそれぞれ罰を与えようとするか、見つからない場合は連帯責任で集団全体を罰そうとするかのどちらかだろう。また私自身の名前が漏れれば紛争にもなる。しかし以上の事実をこの問題の解決に向けて何かしようと考えている各国に知らせることは有用だろう。

以上


四、あるドイツ駐在イギリス総領事の報告(その2)

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総領事カルヴェルよりハリファックス子爵様へ

1 ダッハウ収容所から解放された彼らが、その待遇について沈黙を守らなければひどい処罰に脅かされているにも関わらず、11月9日以来のユダヤ人の収容者に与えられた待遇について、知るのに十分な情報が漏れ出ていることを(以下のように)お知らせできるのは光栄です。

2 ダッハウ収容所は、ノイスまでの南ドイツと西ドイツおよびオーストリアで逮捕されたすべてのユダヤ人が集中した場所であったと思われます。推定によると、監禁されているユダヤ人の最大数は14,000人でした。およそ200から300人が12月中に毎日解放され、そしておよそ5000人がまだ拘留中のままであると思われます。すべての65歳以上の男性と戦線で任務を遂行した退役軍人が今は解放されています。ブルツブルグのユダヤ人神学校の17歳の男の子たちと50歳から60歳の専門職の男性たちは、まだ早期解放の望みがありません。

3 解放された捕虜が誰も話すことが出来ない、または進んで話そうとしないほど、監禁初日は明らかに筆舌{ひつぜつ}に尽くし難い恐怖の一つでした。家畜置場に牛のように一緒に集められたので、収容者たちは屠殺場へ連れて行かれるのではないかという恐怖に苦しんだと想像されます。

4 収容所に入るとすべての収容者は頭を剃られ、黄色の「ダビデの星」の印の押された粗末な麻の囚人服を与えられました。厳しい寒さが到来した後でさえ他のいかなる衣類も提供されなかったようです。しかしながら、下着は酒保(売店)で買うことができたようです。200人から300人が当初60人から80人のために建てられた小屋に詰め込まれました。一部の収容者は裸板の上で寝ていたようですが、ほとんどはわらを持っていました。最初は、全員が一枚の薄い毛布だけを持っていましたが、現在、何人かは二枚持っています。食物は最も粗末な質のもので、ユダヤ人はアーリア人の収容者に許される量の半分だけを受け取ります。6人が同じ皿から食べます。温かい飲み物、チーズ、更にバターは、酒保(売店)で法外な価格で売っていました。収容者たちは家族から週に15マルクのポケットマネーを受け取ることが許されています。お金の分配の遅れは、監禁の6週目になって2週目の小遣いを受け取るだけの人もいたような状態でした。

5 収容者は毎日、午前5時に起こされます。彼らは午前6時に行進して、いかなる目的のためにも列から去ることは許されず、5,6時間は行進をし続けます。彼らは相当な行進と作業をさせられ、気を付けの姿勢で立ちつづけ、薄手のスーツを着て度重なる点呼に答えさせられます。概して言えば、収容者は午前5時から午後7時までほとんどぶっ続けで立っており、重い軍のブーツに不慣れなので、大多数が足の炎症や膿で苦しんでいます。

6 警備員たちの手による残忍な仕打ちの報告は単なるでっち上げにしてはあまりに一致しすぎています。収容者は殴られ、蹴られ、鋼の棍棒で強打されたり足の裏を打たれたりされもしました。一部の警備員は収容者と話すとき必ず手の甲で彼らの口を殴ります。主治医は特に治療を必要としている収容者を無視するような無情さです。凍傷に苦しむ60人の人々は、凍傷はそのうち良くなるのだと伝えられ、処置なしで片づけられました。

7 解放される日は本当の厳しい試練です。解放される人は午前5時に外で行進させられ、午前10時頃まで上半身裸で立たされ、そして主任保健所長が彼らの虐待の痕を検査します。検査の後はホースから流れる冷水が彼らに浴びせられます。収容所を去る前に、指揮官から、収容所に戻れば二度と解放されないから、彼らにできるだけ早くドイツを出発するようにすすめるという演説を受けます。彼らは、もし「残虐物語」を外国で広めるとドイツに残っている同じ宗派の信者の利益にはならないとも警告されます。そして彼らは虐待を受けていない、伝染病に感染していない、そして身の回り品はそのままの状態で受け取ったという文書に署名するよう命令されます。そして彼らは自由に駅まで歩き、家までの運賃を払います。多くの者が歩くことができず、何人かは意識を失ったまま駅まで運ばれます。

8 何人が収容所で死んだのか、また家に着いた後すぐに死んだのかは知られていませんが、沢山いたに違いありません。11月9日から25日の間にダッハウで死んだ10人のミュンヘンユダヤ人の名前は知られています。

9 今までの報告は一連の情報の断片に基づいたものですので、描かれた出来事は本当にあったことかを疑う理由もありませんが、待遇がどこでもそのように悪かったという風に理解されるべきではありません。解放された人の何人かは、彼らの待遇は「そんなに悪くなかった」、そして収容所は能率的に管理されていたと言いました。収容者の待遇は警備員それぞれの性格によってかなり多様であっただろうと思われます。


五、ブッへンバルト強制収容所の元収容者による陳述

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(1939年2月18日、外務省にて聴取)

 最近のドイツでは、ブッへンバルトという名前程人々の心を恐怖で打つ言葉はありません。ゲーテのワイマールからわずか数マイル離れた、快適なブナ森の真ん中に位置する、有刺鉄線によってぐるりと囲まれS.S.(親衛隊)の分遣隊とマシンガンによって警護された場所に、新しい悲しみの町…すなわちブッへンバルトの強制収容所は横たわっています。

 私はベルリンの我が家で、1938年6月13日の朝5時に逮捕され、警察本部に連れて行かれました。そして、そこで以前の犯罪履歴のあるユダヤ人たちと同じように、自分が予防拘留の状態におかれており、やがて強制収容所に移送されるのだという事を知らされました。自分が初めて連れてこられた混み合った警察の留置場の中で、私は他の収容者たちに混じって沢山の知人がいることに気がつきました。そして彼らは大抵は立派な人々、すなわち実業家や大学の先生などでした。逮捕の理由は、しばしば十年かそれ以上さかのぼった有罪宣告であるとか、交通規則に対する違反、子供じみた、取るに足りないいたずらなどに結び付けられたものでした。

 警察官たちが新たに到着する収容者たちの奔流に対する部屋を見つけることができずに途方にくれるようになるまで、さらに多くの新たな収容者たちが連れてこられました。6月13日と14日のこの2日間で、警察に記録のあるあらゆるユダヤ人の男性たちは逮捕されました。収容者たちの何人かは70歳を越えており、彼らが住んでいた養老院から牢獄へと連行されたのです。

 ベルリンでは逮捕者の数は4000人ほどにも達し、国全体ではその数字はおそらく10000から15000に達したことでしょう。これらの収容者たちは皆、ダッハウやザクセンハウゼン、ブッへンバルトの強制収容所に送り込まれました。警察本部において、収容者たちは皆、この国を出ることを認める公文書をどうにかして手に入れたときにしか、自分の解放を期待できないのだということを知らされました。それゆえ、この逮捕が政治的な方策によるものであることは明らかで、この典型的なナチのたくらみは、ユダヤ人の国外移民という潮流を急がせるという単一の視点に基づいて決定された(つまりナチの見方ではこの流れはあまりにもゆっくり流れていると見えた)のだということも明らかでした。それにもかかわらず、逮捕を実行することは、当初予測されたようなゲシュタポではなく通常の警察に委ねられていました。それゆえベルリンの各紙は、単に「多くのユダヤ人の犯罪者たちが予防拘留の状態に置かれた」とのみ報じたのです。

 6月14日の夜のうちに、私たちのうちの2000人は牢獄から、強制収容所に移されました。牢獄を離れる前に、私たちは極端に若いドクターによって試験を受けさせられ、彼はどんな人でも強制収容所の厳しさに肉体的に適合するとして、誰彼構わず私たちを合格させました。そしてその中には、70代の人や、ずっと血を吐き続けている結核患者なども含まれていたのです。

 私たちがそこからベルリンを離れることになったアンハルト駅は、私たちが出発した午前2時には一般人に対しては閉鎖され、準備の整ったライフルを持った強力な警察の部隊が警戒に当たっていました。6月15日の朝6時くらいには私たちはワイマールに到着し、駅で私たちを待っていたS.S.の「しゃれこうべ」部隊を見つけることになったのです。私たちは雨あられのような蹴りや、拳による殴打を前にしてなかなかプラットホームに降り立つことが出来ませんでしたが、ライフルの尻に追い立てられて、外の道路に通じる地下道を進みました。そこで私たちはキャンプの管理者であるロードル氏から、次のような言葉で挨拶されたのです――
「あなた方の中には、すでに投獄されたことのある人々もいます。あなた方が今まで味わってきたものは、これからここで受け取るものとは何の関係も有りません。あなた方は強制収容所の中に入りますが、それはあなた方が地獄に足を踏み入れることを意味しているのです。S.S.の警備兵の権威に反抗する、いかなる試みも、それを行なえばただちにあなたは射殺されるでしょう。私たちはこの収容所で2種類の罰則だけ、すなわち鞭打ちと死刑だけを行ないます。」

 収容所の入口はマシンガンの銃座に守られており、ゲートの向こうにはスローガンがかかれていました「良くも悪くも私の国」。収容者たちは皆、2列に並んだ警備兵たちの間を「両脇に並んだ人々から手厳しい試練を受ける」ことでキャンプの中に入りました。より多くの蹴りや拳が浴びせられたのです。

 この歓迎式典のすぐ直後に、それは多かれ少なかれ強制収容所では普通のことなのですが、私たちは危険な囚人たちがそうされているように頭を刈り込まれました。次に、私たちの市民としての衣服は、囚人服と引き換えに取り上げられました。全ての収容者たちの衣服は、特別な印で目印がつけられていました。政治犯は赤い縞(しま)、聖職者はライラックの縞、いわゆる「仕事逃れ」は黒い縞。

 私たちのゆったりとした囚人服は、黄色の布切れの上に黒のダビデの星で目印がつけられていました。これは「仕事嫌いユダヤ人」を示していました。これは言及する価値があると思うのですが、私たちのほとんどは独立した実業家や、自分の仕事をくびにならざるを得なかった休職者でした。我々のグループには歯医者や数人の弁護士たちも含まれていました。私たちはそれぞれナンバーを与えられ、それを囚人服に刺繍され、以後これらの冷たい数字が我々の名前の代わりをすることになったのです。

 先程説明したような予備試験の後、私たちは新しい区画につれていかれました。6000人のアーリア人の収容者たちがそれぞれ140人ほどを収容できる木造のバラックに収容されている一方で、私たちはまったく文字通り、牛小屋に詰め込まれました。それぞれの小屋に500人も。その小屋にはテーブルもイスもありませんでした。ベッドさえも。夜には、私たちはむきだしの床の上で仮寝し、スペースの不足のために体を伸ばすことも休むことも出来ませんでした。それぞれの収容者は2枚のうすい毛布(それはしばしば裂けていました)を受け取りました。手や顔を洗うための装置は何一つありませんでした。私たちのうちの誰も、最初の1週間に顔や手を洗うことは出来ませんでした。後になって、8個の手や顔を洗うための水鉢が500人のグループにあたえられました。水は10分間はるばる歩いたところにあるポンプから汲んでこなくてはなりませんでした。しかしながら、私たちが最も我慢しなくてはならなかったことは、S.S.の指示によるものでしたが、一群のプロの犯罪者たちが私たちの小屋に導入されて、それぞれの小屋の「秩序を維持する」仕事を任されたことでした。これらの犯罪者たちは、このキャンプの秩序の下では、私たちの上に位置させられており、他の収容者たちを罰するための権力を完全に与えられていたのです。私たちの小屋の全権を任された犯罪者は、とりわけ残酷な変人で、彼はずっと絶え間なく、いやらしく私たちを虐待したのです。

 私たちは皆とても恐れおののいて、口答えすることが反逆だと受け取られ、死を以って罰せられるというような非人間的な虐待から、自分自身を守るために必死でした。特に恐ろしい出来事が、私の記憶の中に深く刻み込まれて離れません。年取った収容者たちのひとりが、昼間私たちが仕事に行っている間に小屋の中でS.S.の警備兵によってこっぴどく殴られ、そのため、夜になって小屋の中でずっとうめき声をあげていたのです。小屋の責任者の野獣のような男は、この男性の顔を何度も繰り返しひっぱたき、彼に声を出すのをやめるように命じました。朝までにその男性は死んでいました。

 キャンプでの最初の2日間、私たちは少しの食べ物も与えられませんでした。それにもかかわらず、私たちは十分ハードに体を動かされました。丸々1週間が、私たちが収容所に入ることに関連した、いろいろな決まりごとに対して注意を払うことによって占められました。その後になって初めて、私たちは普通の仕事につかされたのです。それらの決まりごとの中には、私たちがユダヤ人の「シャーカー」、つまり働こうとしない人々、であるがゆえにこの予防拘留に入れられることになったのだという宣言書までありました。その用紙の上には、このたびの(収容所への)入場は、サインをした人が自発的にそれを受け入れたものである、と印刷してありました。収容者たちのひとり、ブレスローから来た弁護士は、これに署名することを拒否しました。その不幸な男性には、私たちの捕獲者のたくわえの中の、ありとあらゆる拷問が降りかかりました。彼は断固として自分の拒否の意思を貫きました。彼が拷問を受け初めてから4日目、もう死にかけで、体は痛めつけられて骨折しており、半分意識も無かったですが、彼は自分の名前をサインしたのです。

 私は今こそ、S.S.によって私たちに加えられた数々の拷問のいくつかを説明しなければならないでしょう。ほんの僅かな規則違反でさえも――例えば仕事時間中に少し水を飲んだとか―――昼食を抜くことや、日曜日に通常許されている短い自由時間の間、4時間気をつけの姿勢で居ることなどの罰で報われました。しかしメインの(主たる)処罰は鞭打ちでした。公開の鞭打ちは、些細な違反に際しても行われました。例えば、仕事中に煙草を吸っているのを見つかった場合など。午後の点呼の後で――数日おきに――鞭打ちに処されることになる人々の番号が読み上げられ、彼らは引っ立てられ、鞭打ち台の上にきつく縛り付けられました。通常の罰である生皮の鞭による尻への鞭打ち25回の刑は、2人のたくましいS.S.兵士によって、かわるがわるに鞭を使って行なわれました。3人目のSS兵士は、犠牲者がいかなる叫び声も出せないように、犠牲者のあごを上下で掴んでいました。年取って素早く働くことの出来ない収容者たちの中には、その怠惰さのゆえに、このような非人間的な方法で鞭打ちにされた人もいたのです。鞭打ちの後は、犠牲者は彼のズボンを降ろして、S.S.の男に彼の血まみれのむちあとを見せるように強制されたのでした。というのは、彼の仕事はその鞭打ちが十分にしっかりと行なわれていたかどうかを判断することだったからです。25回の鞭打ちはブッへンバルトでは最も一般的な刑罰でしたが、他にもいろいろありました。例えば「スエットボックス(汗の箱)」。収容者を解放するためにスエットボックスを開ける前に、その収容者が死んでしまっているということがしばしばおこりました。

 もう一つの刑罰は「木縛り」として知られているもので、看守たちはこの拷問の可能性を発展させるために大変な創意工夫を示したのです。ほんの些細な規則違反が犯されたとき、収容者たちは木と向かい合うように、抱きしめるように縛り付けられ、前で両手を結び付けられたものです。彼らを縛り付けた革ひもはとてもきつかったので、彼らはほとんど手を動かすことができませんでした。そして今度は看守たちは収容者たちで「メリーゴーランド」遊びをしました。つまり、収容者たちに木のまわりを丸く丸く回らせるのです。もし収容者たちが十分に速く動くことができなかったときは、彼らのくるぶしを蹴ることで収容者の移動を助けてやるのはよくあることでした。

 これは「木縛り」のそれほど厳しくない形態に過ぎません。同じ刑罰の別の形態は、しばしば致命的な結果に終わりました。被害者は外側を向かされながら木に結び付けられ、手を後に回され、木の幹を回り込むようにしてゆわえつけられます。両方の太ももと足を、後者は地面に触っているだけですが、血液の循環を止めるのに十分なほど固く紐で縛られたものです。収容者はこの状態で1回につき何時間も、ぶらさげられたまま放置されました。このような野蛮な拷問が例外的なものであったと考えてはいけません。ブッへンバルトでは、このようなことは日常茶飯事だったのです。

 私たちの到着から1週間後、私たちは定例の仕事に着かされました。ブッへンバルト強制収容所での私たちの仕事日は、以下のように規則付けられていました。午前3時半に起こされ、続いて点呼が4時半から5時半の間にあり、それから朝6時の少し前に仕事場にむりやり行進させられました。正午まで休憩もなしに働きます。お昼には、私たちに与えられるどんぐりコーヒーを飲むための半時間の休息があります。仕事は12時30分に再開され、3時45分まで続きます。4時から5時半まで、2度目の点呼が行なわれ、その日の公開鞭打ち刑がそれに続きます。5時半から6時の間に、私たちの1日の主な食事が摂られ、夕食が悪かった時はそれから8時まで再び働きます。1日は9時で終了です。日曜日は、私たちは朝の6時から夕方4時まで働かされました。キャンプではいかなるお祭りもありませんでした。(長いこといる収容者に聞いたのですが)クリスマスのお祭りさえもありませんでした。私たちは雨の日も晴れの日も、17時間半自分の足で立ちっぱなしでした。この時間割は若い収容者たちのみならず、老人にも適用されました。すなわち、健康な人々のみならず病気の人にも、彼らが自分の足で立ち上がることができるかぎり。私たちの「代わりの衣服」であるところの囚人服を着せられて、私たちは嵐や豪雨の日から夏の酷暑の中まで、あらゆる天候の中で外へ行かされました。

 さて、厳しい労働の初日のことですが――私は自分が生きている限り、この日のことを忘れることができないことでしょう。私たちの仕事班の年取った収容者たちの何人かが、6月の燃えるような暑い日に石切り場で亡くなったのです。朝の点呼の後、私たちはそれぞれ100人強の2つの仕事班に分けられました。それぞれのグループには現場監督が割り当てられ、彼らはきまって常習的な犯罪者の中から選ばれていました。そしてそれが彼らの権利なのですが、彼がうってつけだと思った時に我々を殴りつけるのです。私たちはS.S.の警備兵の一部隊によってまとめられており、彼らの誰もが18歳以上には見えませんでした。それにもかかわらず、彼らは私たちを手荒く扱ったり、ぶん殴ることに関して、まったくもって有能でした。私たちの行列は、65歳以上の収容者も含まれていましたが、行進すると言うよりむしろ棍棒で武装したS.S.兵によって追い立てられながら、自分たちが働くことになる石切り場に到着しました。私たち100人のうち80人は、今まで一度も力仕事をやったことがありませんでした。それにもかかわらず、よく訓練された土木作業員にとってさえも持ち上げるのにかかる苦労がかなりのものとなるであろう、とても重い石のブロックを運ぶことを期待されていたのです。石の多くは、それを運ぼうとする男の肩までそれを持ち上げるだけでも何人かの人手が必要なほど重かったのです。これらの多くの石は、1マイルと少し離れたところにある目的地、すなわち「収容者の」労働によって建設中の新しい道路まで運ばれなければなりませんでした。新しい道路に続く道はかなり急で、最後の3分の1の行程は、私たちは経路に沿って配置されているS.S.兵に、殴ったり蹴ったりライフルの尻で追い立てられながら進みました。仕事を達成することが体力的に不可能であろうと見て取れた年長の収容者たちが、最も最初に脱落しました。私たちは、道路(目的地)から石切り場に新しい荷物を拾うために戻り、このプロセスが繰り返されるのでした。天空には太陽が高く上り、陽射しはますます暑さを増し、高速で行き交うSS兵の車は道の上に砂ぼこりの白い雲を作りました(それはほとんど交通渋滞の時のようでした)。石切り場の近くには、みずみずしい、綺麗な水が湧き出す泉がありました。泉に水を飲もうと近づいた収容者たちは、SS兵によって狩り立てる様に追い払われました。午後までには、私たち100人のうち30人が倒れ崩れており、その中には日射病が原因の者もあり、兵士たちの残酷な攻撃でさえも彼らを再び両足で立たせて仕事場に駆り立てることができないほどでした。私たちは結局、収容所の病院まで彼らを運んで戻らなくてはいけませんでした。2人を除いて皆、彼らは死にました。

 石切り場での仕事に加えて、私たちは木の幹をある場所から別の場所に運ばなくてはなりませんでした。最も重い荷物でさえも、8人以上が滑車で引き上げようとすることは許されていませんでした。その経路に沿って、S.S.兵たちは間隔を空けて配置されていました。私たちはずっと継続的に監視下におかれていたのです。兵士たちの棍棒からの頭や肩への一撃や、長靴による蹴りに付随した怒号、「並んで行動しろ、くたばれ畜生! 並ぶんだ」――が、今でも私の耳の中で鳴り響いています。時として、尋常でなく元気旺盛なS.S.の野郎が、私たちが荷を運んでいる最中に膝を曲げるエクササイズをするように命令したりすることがありました。これは危険と無縁な行動ではありませんでした、というのはもし私たちのうちの一人またはそれ以上が倒れた場合、重い木の幹はその他の誰かを押しつぶすことになりかねなかったのですから。

 ある日、私たちが仕事場に向かう前に、ある通達が行なわれました。私たちは言われました、「ユダヤ人たちは彼らのパンの配給を断ってきた」と。その結果、他に類を見ない、ダッハウの強制収容所の歴史にも無い、(新しい)条例が採用されたのです。それ以後、私たちは半リットルのスープ(他のみんなは1リットル受け取るのです)と250グラムのパン(通常の食料である625グラムと比べて)を受け取るようになりました。終わりの無い強制労働制度が課せられているのに、それと同時に我々の食事は以下の分量に固定されてしまったのです――朝に4分の1リットルのどんぐりコーヒー、昼に半リットルのスープ、そして夜には1塗り分のマーガリンをつけた250グラムのパンと、小さな豚肉。3日間休みが続く時は、当然私たちはいつも通り働くことを要求されているのに、私たちには何の食料も与えられませんでした。

 親族は我々に送金することができました。しかし食べ物は「すべて収容所内で買うことができる」として禁じられていました。このやり方でどのようなことになるのかを、すぐに実際に知ることになります。貧しい家庭にとっては収容所に送るわずかな金も本当に辛いものでした。大量検挙のため、多くの家庭が一家の大黒柱を奪われることになりました。

 公的援助機関が、家長を投獄されてしまった家族を助けることを断わった数多くの事例を、私は個人的に知ることになります。実際に送金を受けた者も、わずかな食事の割り当ての足しにするにはまったく足りませんでした。

 送金の一部は釈放されたときの運賃を支払うために留保されました。この規則は貧しい収容者にとってはことのほか苦しいものでした。なけなしの収入をまるまるこの目的のためにとっておかなければならなりませんでしたから。

 多くの送金があったときは、週に5マルクずつ分配されました。この収入は本来食糧貯蔵庫で食糧を買うのに使えるはずでしたが、そこはとても値段が高くされていました。食糧貯蔵庫の貯蔵ぶりはひどいものでした。パンを買うことはいつも不可能で、しばしばレモネードの粉末しか売られていないこともありました。それに我々は石鹸や歯磨きなども自分で買わなければならないことも勘定にいれておかなければなりません。

 ブッヘンバルトでは死者の数は、ユダヤ人も非ユダヤ人も他の収容所に比べてはるかに多かったです。非ユダヤ人の死者は日に多くても1人でした。しかし6月15日に到着した2000人のユダヤ人収容者のうち、初めの4週間で80人が死に、5週間目に30人が死にました。当局はこの数字を特権でもみ消し、ベルリンユダヤ社会協会には、110人の死亡のうち、公式に39人と伝えました。

 これらの人々はどのように死んでいったか。その答えは有名な決り文句「逃亡を企てたので銃殺」です。しかし私は少なくとも私の収容されていた期間に収容者が本当に逃亡を企てて銃殺されたことは一度もないということを明らかにしなければなりません。

 収容所は有刺鉄線で囲まれていて、夜は電流が通っていました。間隔をおいて銃をそなえた監視所がおかれ、S.S.によって要員が配置されていました。収容者はこの有刺鉄線に近づくことが禁じられていました。もし近づいたらS.S.は彼らに発砲するよう指示していました。新参の収容者はしばしばこの規則を知りませんでした。監視という強制された役目にうんざりしていた監視員は、退屈しのぎに収容者に有刺鉄線の方へ来るようにと呼びます。新しい収容者がこの命令に従って有刺鉄線に近づくや監視員の銃が火を吹きます。この手の「遊び」に彼らは熱中していました。

 ごくまれに、ある収容者が半ば発狂して、もはや強制収容所の地獄の責め苦に耐えられなくなって有刺鉄線に向かって走り出すことがありました。そのときもS.S.は必ず発砲しました。明らかにその犠牲者は発狂していて逃亡などするはずがないとわかっていたにもかかわらずです。

 しかしブッヘンバルトで最も多くの収容者が死んだのは石切り場においてでした。石切り場を囲むようにS.S.の監視所がつながって配置されて近づけば殺されました。

 これはしばしばあったことですが、老人や弱った収容者は、全力を振り絞ってもとても体力的に無理な石を運ぶように命令されました。監視員は何度も何度もそれを運ぶように命じます。当然その不幸な男は仲間の後ろで倒れることになります。しばらくして彼と同じ班だった者たちは遠くの銃声を聞くのです。

 収容者が監視員によって作業の列から監視所の方へ追い立てられると、逃亡を企てたとして銃殺します。

 一つの特別な悲劇を語っておくべきでしょう。ユダヤ人収容者の中の22歳のエーリッヒ・レーベンベルクです。彼は協会の聖歌先唱者を務めていて、若い妻があり、2ヵ月後に出産を控えていました。1938年7月15日、石切り場近くのハイウェイで監視員につきとばされ、別のS.S.の運転するトラックにはねられ、1時間半の後、若者は息を引き取りました。

 収容者が日ごろ経験する肉体的にひどい扱いは、往々にして卒中を引き起こして死に至ります。そういうときの死因は医師によって「心臓の衰弱」と報告されました。

 棺は収容者自身によって木工所で作られます。遺体は通常ワイマールの火葬場へ運ばれて焼かれました。親族は収容者の死を、収容所司令室からの説明のないはがき一枚によって知らされるのです。

 また多くの人々が収容所内に医療設備が不足していることで死にました。初めの週には、救急隊員はユダヤ人に対しては薬を使うことを堅く禁じられていました。この決定によって何人かが死ぬことになりました。後にたびたび起こったことですが、病院を担当する医師がユダヤ人の患者を受け入れることを拒否することがありました。私が知っているあるケースですが、医師がこの患者は症状を偽っているとして、放り出したことがありました。患者は2時間後に亡くなくなりました。

 小屋の中では、夜間ともなると死んでゆく仲間を救う手立てはまったくありませんでした。コップ一杯の水さえ与えることが出来ず、まして薬などまったく手に入らなかったからです。小屋を出て治療の助けを求めることが出来ませんでした。監視員たちは夜間建物から出るものを見つけたら機銃掃射を指示されていました。我々が到着して4週間後にはユダヤ人も病院の小屋を利用できることになりました。それとてもユダヤ人は自分で支払わなければなりませんでした。ごく初歩的な設備すら不足していました。体温計も無かったし、湯沸しもありませんでした。

 しかしこのような地獄の底でも血の通ったものに出会うこともあります。あるS.S隊員たちは非常に少数でしたが、我々を不当に扱うことはありませんでした。何人かのS.S.は、この収容所の条件については彼らもどうすることも出来ないのだと説明していました。彼らは「上官」から命令を受けていました。上官とは騎兵司令官コック殿で、ベルリンのコルンビア・ハウスに居たとき、次にエステルヴェーグとザクセンハウゼンの収容所,そして今やブッヘンバルトの監督として、筆舌に尽くせぬ蛮行の暴虐者として悪名高い人でした。どれほど多くの無防備な収容者たちをこの男は良心の呵責もなく殺したでしょう。

 監督者の中には自分の命を賭しても我々を助けようとした者もいました。彼らのうちのある者は他の収容者たちから「ユダヤ贔屓(びいき)」と非難されて、公然と鞭打たれました。

 派遣されてきた若いオーストリア人のS.S.が到着したあとは、私たちにとって最悪の時期でした。彼らはヴェレルスドルフからブッヘンバルトにやって来ました。彼らによって我々に加えられた苦痛はとても筆の及ぶところではありません。

 現時点のドイツで一つの強制収容所の人口はあわせてどれぐらいでしょうか。収容者の分類はどうでしょうか。ブッヘンバルトは我々8000人です。2000人がユダヤ人で6000人が非ユダヤ人。ここは将来25000人収容できるドイツ最大の収容所に拡大される計画が提案されています。

 8000人の収容者の中には、まず「政治犯」(例えばノイバウエル、セフコウ、ヴィオティンスキ、その他の共産党国会議員)です。彼らの多くは1933年からあちこちの強制収容所にいれられていました。他の収容者としてベルリンの有名な 弁護士ハンス・リッテンがいます。彼は最近ブッヘンバルトの石切り場で足をくじきました。初めの傷からまだ十分治っていませんでした。

 本来の政治犯のほかにブッヘンバルトには神聖な指導者(ヒットラー)の悪口を言ったと告発されたあわれな沢山の“極悪人”も含まれていました。彼らの大部分は判決の刑期を終えた後、正当な逮捕のもとに強制収容所に送られてきました。拘留の期間はこの場合未決定のままにされました。

 強制収容所拘留の地獄の特徴の一つは、この神経を擦りへらす日々の見通しの無さ(無期限性)でした。予防逮捕は3ヶ月拘留のはずです。それが3年の拘留にすりかわります。刑期を決める何の規則も法律もありません。

 「政治犯」の次にいわゆる「仕事嫌い」に分類されるものが多いです。宿無し、浮浪者の仲間とみなされたら誰でも陥れられます。たとえば:ビジネスの被雇用者が職を失って失業救済の申請を出します。ある日労働斡旋所から新しい自動車道路の土木工事の仕事ができるという通知を受けます。彼は商業的な部署を探していたのでこの話を断わりました。労働斡旋所は彼を「仕事嫌い」であるとしてゲシュタポに報告し、彼は逮捕され、強制収容所に送られてきました。低賃金の職場からよりましな職場を探していた技術労働者もしばしば同じ運命をたどりました。

 次のグループは「聖書研究者」。教義を聖書に求め、地方のあらゆるところにかなり沢山の信者を擁し、信者が軍役を忌避するという理由でゲシュタポによって有害であると糾弾された宗教団体です。このような気の毒な人々は、ユダヤ人たちとほとんど同じようなひどい扱いを受けました。

 四番目の分類は「同性愛者」、または少なくともゲシュタポによって同性愛者と同等な罪とみなされた者。好ましくないものをこのように攻撃することは秘密警察が好んで用いる手段です。私が拘留されていた期間にはこのグループの人々は居ませんでした。

 最後の収容者の分類は「職業的犯罪者」です。前にも述べたように彼らの中から私たちの監督者が選ばれます。権限を与えられたものは我々を好き勝手に扱うことができます。彼らの多くが我々をひどく扱うことによって、S.S.の歓心を買おうとします。日曜日の休憩時間に「演習」させたり、老いた収容者をぬかるみに転がしたりすることによって。

 収容者が実際に釈放されるようなときには、診察を受けて、体のどこかに鞭の跡や、打撲傷がないことを確かめなければなりません。打撲傷が残っているものは、それらがすべて治って消えるまで帰ることは許されません。このようにして当局は、収容者への肉体的暴行のことが外の世界へ知られることを防ごうとします。しかし彼らの準備と用心が上手くいくかどうかははなはだ疑問です。真実は少しずつ壁を抜けて行きました。

 私が釈放されることになったとき、―――私は外国へのビザなしに強制収容所を去ることになった数少ない一人です。私はS.S.の高官から、強制収容所の生活に関して少しでも漏らしたら命はないと脅されました。彼の実際の言葉を記しておくことは有意義でしょう。「国家社会主義には真実を恐れる理由はない。しかし残虐行為という作り話が広まるのを放っておくことはできない」と。

 私は釈放されたら5週間以内に国を出なければならず、そして一旦出たら再入国できないことと知らされました。この5週間の間、私は警察の監視下にあり、毎日報告に行くはずでした。まずベルリンの、それから私の居住地の警察本部へ。

 ところが私がはじめて警察本部に報告に行ったとき、ドイツの現状に特徴的なことが起こったようでした。私はそこでブッヘンバルトについて熱心に問いただそうとするまともな警察署の職員に取り囲まれたのです。強制収容所を出るときからついてまわった恐怖を思い出して、初めは答えることを拒否していました。彼らは身分を示す証明書を見せて私の疑念を和らげ、ブッヘンバルトの状況が実際にどんなであるかを話すように促しました。彼らは私に危害を加えそうな様子はありませんでした。そこで私は自分が見てきたことを話しました。彼らは非常にショックを受けて、私の話をさえぎらざるを得ませんでした。そんな話は実に不愉快でスキャンダルだと彼らは言いました。フリッツとヒムラーに責任がある。あの2人にだけ。彼らは私の話に強い衝撃を受けて、心を痛めました。S.S.が排他的に絶対権力を握っている強制収容所に関しては、ここの職員は何一つ関与できないのでした。

 私は今までブッヘンバルトについて語ったように生き延び、くぐり抜けてきました。私はたった6週間いただけですから、私の報告が完全と言うわけにはいきません。1938年6月に私と一緒に逮捕された大部分の人々は今なお獄につながれたままであること、そして彼らの死亡者名簿はどんどん増えつづけていることを、私は信用できる筋を通して知っています。

【中国当局が北朝鮮の強制収容所の存在を確認】

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2008年5月11日の東京新聞朝刊は、中国国務院(内閣に相当)傘下の情報機関「国家安全省」が2000年6月に発行した極秘の報告書『延辺地区、中朝辺境情況簡介』の存在を報じた。注目すべきは、「農場」と呼ばれる政治犯収容所が全国に十数か所あり、政治犯とその家族役30万人が収容中と分析しているという指摘である。 北朝鮮当局は、今日に至るまで、政治犯収容所の存在を否定している。それを隣国の社会主義国中国が「絶密資料」という極秘文書とはいえ、国家機関の報告書の中でその存在を認めていることである。

最近日本人研究者が中国で入手したものと言うが,約270頁に及ぶもので、朝鮮人民軍や中朝国境の人員配置、関係部署の直通電話番号の記載、中国国内での北朝鮮工作員組織(韓国情報収集のための)「312号室」(1992年に新設)、軍傘下の「警備隊」(1995年創設)のことなども記されていると言う。

北朝鮮収容所の廃絶を願うものにとっては、上記収容所に関する記述が、一番に注目される。収容所の数が十数か所と言う指摘が、以前12ヶ所と『北朝鮮の人権』(ミネソタ弁護士会、アジアウォッチ共編、1988年)で指摘されたものに該当するのか、それとも今回の報告書の調査時点(1999年~2000年)のものであるか、近年5・6ヶ所と言う見解に立つ韓国の北韓政治犯収容所解体運動本部(金泰振代表)の吟味と論評を待ちたい。

北朝鮮の友好国中国が北朝鮮の山の中の強制収容所の存在を認定していることの意義は,測り知れない。詳しくは5月11日の東京新聞の記事を見られたい。秘密報告書の写真も掲載されている。

【日本人や在日朝鮮人たちと強制収容所の状況証言】

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幼い頃両親と共に帰国事業で北朝鮮に渡り、37年間北朝鮮での生活後脱北。2005年に日本に帰国された千葉優美子さんが、収容所の解体と生存者の救出を希求すると共に、「帰国事業で北朝鮮に渡った日本人や在日朝鮮人たちが強制収容所に収監されていた」という状況証言をされておられます。

千葉さんは4月13日の発会式に大阪から参加され、即日入会されました。


NO FENCEの皆様

私は大阪で暮らしている脱北者千葉優美子と申します。以下の一文から私の心を読んで下さったら、ありがたいです。

私は日本でNO FENCEが発足したことを、熱烈に祝します。そして、心から感謝いたします。ありがとうございます。発足会に韓国脱北者たちも来られ、証言されたので、北朝鮮収容所の現実が、今少し、よく理解されたのではないかと思います。

私は北朝鮮で暮らしながら、日本で生まれた私がどうして北朝鮮に来て、このような苦労をしなければならないのか、嘆きつつ流した涙は、川ほどになります。今晩は無事か、明日は無事であるか? いつ、どの瞬間に、収容所に引っ張られるかわからず、びくびくと送った日々を忘れることができません。

日本にある朝鮮総連という団体のペテンで、いわゆる“帰国”という名で北朝鮮に行った9万3千人以上の人たちの多くが、北朝鮮政治犯収容所へ引っ張られた方法は、「49号病院」から始まりました。

帰国船という「万景峰号」という船から降りずに、再び日本に送ってほしいという人々を見て、精神的異常が生じた人々であると、病院に行って治療を受けなければならないと、強制的に船から降ろさせた後(北朝鮮では精神異常者の治療病院を49号病院という)、49号病院に連れて行ったということは、鉄窓の中に閉じ込め、どのようにしたのか言葉もできないようになり、自分の身体の中心を取ることもできないように(注:話をすることができないような状態になり、自分の体を維持して立っていることも難しく、動物のような四つんばい状態に)させてしまいました。ですから、北朝鮮最初の帰国者収容所は49号病院という名だけを借りた「人間動物園」でした。

しかし、そのような人々が増えていくや、1969年からは、それまで北朝鮮本土国民だけ収容させていた政治犯収容所の中に、49号病院の中で生き残っていた人間動物たちを、まず切り離して収容することを開始し、言葉もできないように作り上げ、中心を維持することすら出来ないようにさせていたことを中止し、収容所の中で労働奴隷に作り上げました。このように始まった日本人、在日朝鮮人たちが、北朝鮮本土人たちのいた政治犯収容所の一角に、新しい「部落」を作ってみると(本土人たちとの接触は、収容所の中でも禁止した)、労働力が不足するので、社会に背いた人々を1970年代10年間だけでも(当初帰った帰国者の)45%程度(注)政治犯収容所帰国者部落に引っ立てて収容しました。

引っ張られた理由は:日本を恋しがったこと、日本の歌を一度歌った、日本語を話した、家で日本語を書いた、・・・・手当たり次第に、日本から持ってきた財産を没収し、政治犯収容所へ収容しました。本人だけではなく、(本人は大抵保衛部監房で殺す)、兄弟、親戚たちまで、収容所に引っ張りました。

その中には日本人たちもいました。本当に何の罪もない人々が、収容所に引っ張られ、 どれだけ多くの人が死んだかわかりません。このように日本にある朝鮮総連という団体は、地上楽園に行こうとだまし、生き地獄に送ったのです。このような悪魔のような団体がなかったら、彼らが人々をだますことがなかったら、北朝鮮の政治犯収容所という恐ろしい所にまで行って死ぬことはなかったのです。ところでそのような朝鮮総連が21世紀である今でも日本に存在していることは理解できず、私は死んでも許すことはできません。私はこのような現実を日本の国民たちと世界が知らなければならないと考えます。

今こそ現実をより具体的に知らせ、必ず(収容所を)解体させなければならず、生きている生存者たちは必ず助け出し、歴史の証言者として、二度とこのようなことがないようにしなければならないでしょう。

私は今回発足したNO FENCEが、北朝鮮収容所にいる日本人、在日朝鮮人たちを必ず救い出して下さるであろうことを、固く信じたいです。否、固く信じます。万一、NO FENCEの集会で、37年間北朝鮮で生きた私の証言が必要でしたら、いつでも呼んで下さい。そして会員として私が出来ることを教えて下さい。何でもいたします。そして1人でも多く生きて日本に帰ってこられるよう、私の小さな力ですが、みな捧げ、最善を尽くします。助けてください。

NO FENCEの今後の成果を願っています。

2008年4月15日 千葉 優美子

(注)45%の根拠

「北朝鮮に日本から渡った人々のうち政治犯収容所に行った人が40%だという話は、私が大学生のときの1979年だったと思います。その時(1979年12月)「歌舞団」という劇場で、「帰国実現20周年行事」がありました。この行事で道党幹部が報告をしたのですが、その報告の最後に帰国者たちの課業という言葉を使いながら、道党執行委員会の発表によれば、今帰国者たちの40%程度が革命化をしなければならぬようになったと言いつつ、これは帰国者たちがいまだに安逸で気の緩んだ生活から抜け出せないでいるからだと言い、自分たちを徹底的に鍛錬して、これ以上革命化区域へ行かないようにしなければならぬと言いました。即ち、この指摘は北朝鮮で革命化区域という政治犯収容所に今帰国者たちの40%が入っているという話であります。

その日の夜、家に戻った父は、家族たちの前で、言葉一言、行い一つ、慎重にしなさいと言い、そのような所に行ったら二度と生きて戻れないから、くれぐれも言わざる、見ざる、聞かざるで生きよう、そう言った父の言葉を、今も私は忘れることができません。しかしその後の1980年代にも、私たちの周囲にいた帰国者たちが、一晩立つと家族全部がいなくなっていることがありましたので、直接聞いた40%に5%を足して、その程度ではないかと考えたのです。」

〈千葉優美子さんのプロフィール〉

1963年3歳で両親と北朝鮮に渡る。父は朝鮮総連の幹部であった。37年間北朝鮮で生活後脱北し、中国で数年間過ごした後、2005年に日本に帰国。